フィリピンのマイケル・クリスチャン・マルティネス選手。
先日の四大陸選手権で初めてご覧になった方も多いのではないでしょうか。
シャーロットスパイラルからの3Lz、クリムキンイーグル、
そして並の女子よりも遥かに綺麗なI字やビールマン!実に面白い選手です。

私が初めて彼の演技を観たのは、2011年のJGPブリスベン。
リザルトとプロトコルを見て
「フィリピーノ?珍しいネー」と思って気になったのが最初でした。



で、これです。なんちゅー面白い事をする選手なのかと!
フォロワーさんがその前の年のJGP軽井沢で、国際大会デビューとなった彼を観てたらしく。
う、羨ましいなんて、思ってないんだからネ!!!
いやはや、そんな感じでもっと早くに知っておきたかった選手です。
ともかく、この年からISUがJGPの動画を全選手上げてくれるのは本当に神でした。
先日の四大陸で「すごい!」という現地レポなどが多く上がっており、
「ね、ね!すごいでしょ!マイケルすごいでしょー!!」
……と勝手にオカンになった気分です。

で、もう半年前の記事ですが、Golden Skateにいつもおなじみ
タチヤナ・フレイドさんが記事を上げて下さっているので
今更ながら和訳してみました。
変なとこがあったら教えてくださいネ。

元記事はコチラです:
Martinez puts the Philippines on the map for figure skating

フィリピンはスケートが盛んな国とは言えないが、そこから天賦の才を持った選手が昨シーズンより現れた。それが、マイケル・クリスチャン・マルティネスだ。
この15歳の少年は首都マニラの南に位置する人口40万の都市“モンテンルパ”の出身。
今週(訳注:記事がUPされた当時)行われたレークプラシッドでのジュニアグランプリで、この発展段階にある若いスケーターは4位に入り、その印象を確固たるものにした。表彰台まではあと0.37点にまで迫るものだった。

マルティネスはこの試合のショートプログラムで初めてトリプルアクセルに成功したが、その後のフリップとルッツからのジャンプがいずれもダブルになり7位と出遅れる。
このショートプログラムは「トッカータとフーガ」。しかしこれは最初から予定されたものではなかったという。

「8月にフィリピンの連盟からの勧めで、レークプラシッドでのJGPの前のウォームアップとして、アメリカの小さな大会に2つ出場しました。
この試合では新しい2つのプログラムを試すこと、そしてトリプルアクセルに挑戦することが目的でした。でもこの2試合のショートプログラムではあまり良いPCSを貰えなかった。ジャッジはプログラムが僕に合っていないと教えてくれました。だから、プログラムを変更することにしたんです」
そこでアレックス・チャンは、レークプラシッドの一週間前に急遽新しいプログラムを用意した。

「ショートプログラムの間はずっとナーバスになってました。一週間前は別のプログラムを演じてて、まだ洗練されてるとは言えなかったから。いい音楽を選ぶような時間的余裕もなくとにかく大急ぎで……とりあえずノービスの時代に使っていた、誰もが知っている有名な曲にしました。
レークプラシッドの試合が終わったら、次の試合までの2週間の間にまた変えると思います」

フリーのプログラムは「キング・アーサー」。このプログラムで彼は再びトリプルアクセルと4つのトリプルジャンプに成功、そしてスピンは3つともレベル4を獲得し、4位に順位を上げた。ショートのミスでメダルにはわずかに届かなかったが、フィリピン人としての歴史的な出来事となった。しかしながらマルティネスは、次の機会をザグレブで行われるジュニアグランプリで狙っている。
クロアチアでの大会の前に、マルティネスはオーベルストドルフで行われるネーベルホルン杯に、シニアのカテゴリで初めて出場予定だ。

彼は現在カリフォルニアを拠点に、イリヤ・クーリックだけでなくジョン・ニックスやピーター・コングカセムらと練習を行なっている。この夏で彼はトリプルアクセルを習得した。
「実はトリプルアクセルは2011年には降りられるようになっていました。でもヘンなところばかりだし、時々誤魔化した踏切にもなっていました。得点の上で障害となるので、プログラムには入れてなかったんです」と彼は教えてくれた。

マルティネスの才能は明らかだ。そうでなければ2005年にはフィリピンでレクリエーションとして滑っていたスケーターが、7年後にはJGPでトリプルアクセルを成功させるまでの選手には成り得なかっただろう。なんと、彼はショッピングモールのリンクでスケートを始めたのだという。

地元での練習は、多くの試練に直面することとなる。
「マニラにはオリンピックサイズのリンクがあります。でもそこは一般営業で他のお客さんも多数使ってて、貸切ができないんです。整氷は1日2回しか行われないし、ザンボニーもちゃんと使われているとは言えない……アメリカのような良い氷では決してありませんでした。振り返ってみれば、2回転以上のジャンプをするのもとても難しかったんです。
氷は荒いし削りカスの山もたくさんあって、何より人がたくさんいました。いつもリンクには6〜8時間くらいいましたが、自分が必要な要素などの練習をこなすために別のリンクと行き来をしていました」
マルティネスは練習前に2つのモールのリンクをチェックし、一般客が少ない方を選んでいたという。

「状態の悪い氷で練習をするうちに、たくさんケガをしてしまいました。足首の靭帯断裂に、膝の靭帯断裂も。それにコーチはレクリエーションレベルしかいなくて、ISUの競技条項を適切に教えられるコーチは一人もいませんでした。これらはまったく異なるものですよね」
そこで彼は2008年、試合に出るスケーターとなるためにアメリカへ渡り、コロラドスプリングスで練習を行った。
「プレジュブナイルだった2008年、ジャネット・チャンピオンや他のコーチのもとで練習を行いました。6月に初めてトリプルジャンプ──トウループとサルコウに成功したんです。ゲストコーチとして招かれていた、アレクサンドル・ザイツェフが一緒でした」
マルティネスはコロラドスプリングスのレベルの高さに深い感銘を受けた。
「それまで、エリートスケーターと同じ場に居れた事はありませんでした。エリートセッションを見て、彼らの巧みなスケーティングは真似できないと感じました」と振り返る。
彼は2つのトリプルジャンプを習得したのだが、不運にもフィリピンへ戻ってからプロのコーチが居なかったがためにそれらを失ってしまう。そんな逆境の中でも彼はスケーターを諦めることはなかった。

彼は2009年、ノービスの大会に出場するためにヨーロッパへ赴いた。
「スロバキアとスロベニア、それにオーストリアの大会で1位になれました。それらの大会に出て、もっと高いレベルの大会にも出たいなという目標ができました。その時は13歳で、まだトリプルジャンプは2種類しか持ってなかったのですが、母が後押ししてくれました」

マルティネスは2010年12月に再びアメリカへ渡り、イリヤ・クーリックのもとで練習を始めた。
「2011年に再びアメリカで、合計4ヶ月ほどレッスンを受けました。今年はこれまでのところ、3ヶ月ほど彼(クーリック)のもとで練習を積んでいます」
マルティネスは2010年の7月と8月にはカリフォルニアへ行き、アナハイムのジョン・サイタのほかアリソ・ヴィエホのジョン・ニックスとも短い期間練習を行なった。
「ニックス氏はトリプルジャンプの手助けをしてくれました。彼のレッスンはアリソ・ヴィエホのリンクが当時滞在していた場所からとても遠く、非常に限られたものではありましたが、それでも彼との練習はとても有益でした」

マルティネスが13歳の2010年9月、カリフォルニアで行われたゴールデンウェストではトリプルジャンプに成功して3位。それからほどなくして彼は日本でのジュニアグランプリデビューを果たすが、そこでは17位に終わる。
「すごく緊張してしまいました。でも母が『失うものはないんだから、あとは上がるだけよ』と言ってくれました」

それからマルティネスは著しい成長を遂げる。インスブルックで開催されたユースオリンピックで7位に入った。彼は結果には失望したが、過去のシーズンのハイライトとしてこの試合を熟考している。
「ユース五輪に出場する若いスケーターのトップ16人、その中に入れた事はラッキーでした。特に、自分がスケート発展途上国の出身であるという功績はとても誇りに思います。ほんの少しでも、スケート連盟に僕がやれる奴なんだと思わせることが、このユース五輪でできたんですから。
最終的な結果には満足していません。本当は5位以内に入りたかったのですが、できなかった。ショートプログラムは3位で折り返したのに、フリーで7位に沈んでしまったので。
コーチのクーリックは、彼に十分なお金を払うことができないので来れませんでした。ユース五輪の前や期間中はフィリピン政府から金銭的な支援はなかったので、僕の母が帯同しました。とても悲しかった」
この試合後になって、少しばかりの資金援助がフィリピンのスケート連盟およびオリンピック委員会からあったことを彼は付け加えた。

この(訳注:2012年)3月、マルティネスは初めて世界ジュニアに出場して15位だった。
「トリプルジャンプを6つ降りることができました。PCSが低かったので、それで15位だったのかな。ショートは技術点こそ8位でしたがPCSが低くて16位。ジャンプを降りるだけでなく、もっといいプログラムを演じないと、と感じました」
世界ジュニアで彼は、トリプルアクセルとトリプル+トリプルのコンビネーションジャンプが試合で必要だということも実感した。
「もっとたくさん練習しないとな、と思いました。それはつまり、僕の生活の多くを練習に捧げることになるし、レッスンを受けるためにはもっと多くのお金が必要になります。でもこの金銭の犠牲について、家族は何も言及しないんです」

マルティネスは今季の目標を高いところに置いている。
「目標はフリーでトリプルアクセルを2回降りることと、クワドを習得すること」そう話す。
「究極的な夢を言えば、オリンピックのメダルを獲って、フィリピンに持って帰ること」と付け加えた。

彼の国ではフィギュアスケートはマイナースポーツだ。しかしこのアスリートの認知度が母国で上がっている手応えはあるという。
「人々が氷上で僕を見ると、動きだとかジャンプ、それにスピンをすると魅了されているとわかります」

スケート面での憧れはパトリック・チャンだが、氷上を離れると彼の母が“アイドル”。
「僕のところは片親ですが、母は僕達の生活が常に良いものである事、それを成していました。もし母が根気強くも献身的でもなかったら、僕はこんなに短い期間でフィギュアスケートでの成功を修める事はなかったでしょう」
彼は母と同時に、自らの功績についても同じように誇りに感じている。
「僕は嘘偽りなく、“現地(訳注:フィリピン)で生まれ育った才能”だと言えるし、嘘偽りなくフィリピンで生まれ育って、そこでスケートを始めたフィリピンの代表とも言えます。ほんの数日間他の国からフィリピンにやってきて、ナショナルに出場したらすぐに帰ってしまう他のチームメンバーとは違うんです」

2012年4月、彼は膝靭帯断裂という深刻な怪我を負ってしまう。
「2ヶ月ほど氷から離れて、ジャンプの練習ができませんでした。ジャンプをもう一度練習しなおす必要があって、辛かったです」
マルティネスの医師は彼の長年にわたる負傷のため、スケートを中止するよう勧めたという。
「自分がやっていることは本当に意味があるのか、自問自答しました。
2008年以来、僕は時間をスケートやジム通い、それに競技のためにちょくちょく学校から離れていました。それで僕はフィギュアスケートを通じて、決して諦めないという重要な教訓を得ました」

2012〜13年のシーズンの終わりに人々が彼に何を言っていてほしいかと問うたら、こんな的確な答えが返ってきた。「僕が2014年のオリンピックで、フィリピンの代表にふさわしい」と。